紅十:千秋楽(思考の断片備忘録)

『紅十』千秋楽へ行ってきました。とても楽しかったです。そして私にとってはさらにコントについて考えるきっかけとなりました。
つまり、笑いと物語の関係性について。笑いや感動などをうみだす物語とはなんなのだろうか、そして必然なのだろうか?と。

はっきりいって『紅十』の物語はベタです。一人の女「紅子」をめぐる十人の男の恋愛悲喜劇で、笑ってなおかつじーんとくるような。ほぼ全ての男性キャラが一人の女性に恋をするのもよくあるパターン。最近の少女漫画によくあるタイプですね。いわゆる逆ハーレム状態。これだけ様々なタイプのキャラが出てくれば、誰かしらにはまれるもので、幅広いターゲットを得られるなかなか効率のいい手法なわけです。そして、物語としても予想を裏切る展開は一切ないと言っていいでしょう。(少なくとも今のところは。)

さて、ここで私に浮かぶ疑問は、「この物語は、必要なのか?」というものです。果たして、私が舞台を見ながら得ている快楽に物語が必然なのだろうか?と問わざるを得ない。おそらくは、この物語はキャラクターを立たせる為だけに存在している。だから、物語自体が新しいものである必要も何もない。つまりはこの『紅十』という舞台は、キャラクターを動かすための装置に過ぎないのではないか?物語はあくまでも最低限の要素なのではないだろうか。そして、効率よく感動するためには、誰もが簡単に理解できる、クリシェで編まれた物語が最大限の効果を持つのではないだろうか、ということです。そして繰り返しますが、そういった良くも悪くもありきたりな物語を魅力的にするのは、キャラクターの演技力や魅力に他ならないのだ、と。そして、今回は保留しますが演出の力。

そして、私がここで思いだすのは、KOCの予選で見た数々のコントや、最近好きなコントについてです。ラブレターズ御茶ノ水男子のコントを見て感じる感動はなんなのでしょう。特にラブレターズが環八でやったネタがもつ心ゆさぶる力。特にラブレターズのネタはとてもシンプルなストーリーでした。ある意味よくある話。それでもその世界感の吸引力は素晴らしいものでした。
KOCの予選で見るネタは物語として見るには余りには短いのです。だから、必然的に私の目についたのは、キャラクター自身の力と、ネタの流れや構造の鮮やかさ。そこで語られる物語の質や、共感力は重要度が低く感じました。あるいはすぐにストーリーの展開が予想できるもの以外はなかなか伝わりづらいようにも感じたのです。

お笑いと物語という問題について、考えてみたところ、神保町花月という、長い時間の中で物語を見せる場合でも物語が必ずしも必要ではなく、KOCのコントでも物語をあまり感じない。
やはり物語は消失したのでしょうか。そんなはずはないのです。にも関わらず、物語自体はある種のクリシェステレオタイプの積み重ねであり、むしろそれを編むための形式やキャラクターが肥大化している。
つまり物語の型や、骨格だけは厳然と存在している。表層だけがあり、深層がない物語。だからこそ、いかようにもキャラが動きまわれるのではないでしょうか。背景から自由だからこそ、演者である芸人のキャラのままでも構わないし、おおいに遊んでもかまわない。そういったあり方がある種、奇妙な笑いと感動を引き起こしているようです。
そして、それは私にとって非常に異様な出来事で、舞台を見終わった後から気持ちの所在が定まりません。
とはいえ、なんだか面白い現象ですので、今後また考えてみたいと思います。

しいはし氏ブログによると、泣かせたら勝ち!だったようなので、いわば勝負に負けたんですなwしかしなにか釈然としないのだ!不思議ですw