チーモンチョーチュウの魅力。漫才の快楽とは。:エクリチュールの裂け目に現れるパロール。

チーモンチョーチュウの春単独の予定がない。
という衝撃の事実を知り、先ほどからショックの中でチーモンが生で見られなくなるかもしれないという恐怖をなぜ感じるのか、なぜ生でないとだめなのかということについてふわふわ考えています。そして漫才というものが必然的に持つ、即興性の部分の魅力、吸引力が私にとってものすごく重要だったということに思い至りました。
なぜなら漫才は一見その場で生じる会話のフリをしているから。
例えばコントでは書かれた物語だということを前提にしてるので、それが生である必要は必ずしもない。そもそも偶然性や一回性があまり想定されないから。エクリチュール(書かれたもの)の再演であるから。物語が生じる瞬間を見ているわけではないわけです。あくまでも追体験としての物語体験。

ところが漫才は嘘だとは知りつつもパロール(話されるもの)を楽しんでいる訳で、一応あたかもその場で生じるもの(物語)を期待しているという設定にのっかっているわけです。漫才というものそれ自体が、エクリチュールパロールとして見せるという、見せかける構造を前提にするわけです。つまりはその装置を楽しみつつ、どこかで嘘のパロール、すなわちその場で物語が生じる瞬間を楽しむ嘘を共有しているわけです。だからこそ、アドリブやハプニングなどで、見せかけのパロールエクリチュールパロールの中間的なもの、偽パロールとでも言うべきものの狭間に本物のパロールが立ち表れたとき、客はおお!とわくわけです。だからこそ、漫才を重視する吉本芸人たちがどこかアドリブ力を重視しているように見えるのでしょう。

そしてチーモンは漫才が面白いのはもちろんのこと、フリートーク、すなわちパロールが漫才に勝るとも劣らない面白さなのです。チーモンが次々と産み落とすパロール世界のめまぐるしく展開する物語のいびつさと美しさときたら、それはもう唯一無二です。ということは、チーモンがこれからテレビに出るようになって、ライブが減ってしまうと、私が最も愛している部分にあまり触れられなくなってしまうのかもしれないわけで。

ふう。きっと春単独の日程が難しいだけなのだとは思いますが、どうかチーモンのライブを見続けられますように。願わくば彼らの魅力が十二分にでる単独ライブという形で、と切に祈るのでした。