つらつらつらと続き、そして単独ライブについてもちらり(乱文注意!)☆

チーモンチョーチュウの単独ライブ『又太郎』に行ったとき、あれー漫才よりコントのほうが自由で楽しそう、そして私も楽しい。なんでかなーと思いました。多分それはチーモンの自由度がより高いっていうのと、チーモンが言語遊びから身体的な遊びにシフトしているからなんじゃないかって、今は思う。
単独がどんな内容だったかをすべてレポするっていうのは他の方がやっていらっしゃるし、私のスタイルではないのでしませんが、気になっていることはあるんですよね。

一番面白くて印象に残ってるのは、おならコントです。
原因不明で取り残された死体の白井氏を調査しに、刑事である菊地氏がやってくるわけですが、この死体がなんとおならをする!そしておならで会話をする!というものなのです。このネタがなんとも象徴的じゃないでしょうか???
ちょっと記憶があやふやで申し訳ないですが、語尾がおならの音である「ぷー」であったり、「すー」であったりと、いつものチーモン的言葉遊びの要素もありましたが、それ以上にこのネタの構造自体が言語から身体へのシフトそしてさらにそれを超越するという最近のチーモンを表しているようです。

死体である白井は本来言葉を発することができないはずです。すなわち、言語的な部分の死を迎えているはずです。ところが、おならで会話できてしまう。身体が直接言葉を発するという、死んでいるはずなのに言語をはっするというねじれた状況です。しかも菊地氏が問いかけたことに必ずしも答えてくれるわけではない。どこか身体のタイミング(おならのタイミング)に依拠した一方的なコミュニケーション。しかもおならだから、仕方ないとも思わせる。そらガスがたまらないと会話できないよねと。(考え過ぎかな。)

よくわからないのです。言語を発する際、通常脳で考えているはずだけれど、おならで会話となると、もはや何が思考を形作っているのかわからない。いろいろとわからない。

そもそも死体なのだから、身体も死んでいるはずだし、なにがこのコミュニケーションを成り立たせているのか。そしてそのかろうじて成立するコミュニケーションもなにかいびつ。色々と不可解だけれど、状況は進行し、最終的に白井氏がとびおきて舞台上ではしゃいでいる。

その場で前提とされていた身体が死んでいるという条件すら最後には破壊され、混沌としたなか、ただただ二人の悪ふざけ、そしてそれを楽しんでいるという空気感に巻き込まれ、ただただ笑うしかない。そういう感じでした。

身体の死、言語の死。それなのに身体は活動しているという逆転。そして最後には覆した設定そのものをもう一度覆す。
言語から身体とシフトするも、実はどちらも同等に死んでいる。死というファクターで身体、言語、身体、と何度もシフトする。最終的にあるのは不全なコミュニケーションと前提をすべて覆した上で、彼らの身体を自由に羽ばたかせた上での生の発露としての笑い。彼らの遊戯をひたすら楽しみ、彼らのアウラ自体の輝きの中でひたすら笑うしかない。

チーモンの単独をみて「???」という感想を抱いている方がいたようですが、彼らの好き勝手やって、しかも彼らが作ったお約束も破壊したりする。そして死体とか設定がちょっとホラーみたいなのになれていない人には、ついていきづらいのかもしれませんね。私としてはうーわー、やーばーいー(歓喜!)って感じでしたが。

ああ、チーモンの笑いは最終的には漫才やコントなどのすべての枠組みを超え、そして最も原初的な生のアウラにたどりつく。そういうことなのかと思いました。

なんだかいろいろ考えてしまいました。こんなもの笑いの鑑賞には多分必要ない分析だと思う。芸人さんにも迷惑かもしらん。でもでも、考えてしまう。私をそれだけ夢中にさせる何かが彼らにはあるんだ。仕方ないよね。と思いつつ今日はここまでー。