差し漫才:ブロードキャスト×チーモンチョーチュウ

9/18に浅草花月で行われたブロードキャスト主催の差し漫才に行ってきました。もともと前評判のいい、たっぷり漫才が見られるライブとの事で、チーモンとブロキャスの組み合わせなんて、絶対面白いに違いないと思っていました。そして噂によると長尺の漫才が見られるという話でしたので、それはもう期待に胸膨らませて行ってきたのです。
と、こ、ろ、が!
なんとチーモンはまともな漫才を一本しかやりませんでした!
このライブでは二組が交互に出てきて、思い思いの長さのネタを披露し、1時間経過したらネタは強制終了になります。わざと短いネタをいれて、相手をきりきり舞いさせたりする、というのも恒例だとか。
そして、チーモンがやったのは、ひたすら自己紹介のネタ「どうも、コーモンチューチューです!」とか「コーモンスースーです!」やその他の一発芸をやったりするショートネタを突っ込みつづけるという、「ブロキャスを困らせる」というものでした。
最初何回かはブロキャスもショートネタで返していたものの、根が真面目で、お客さん思いなせいか、きっちりとロングネタをやるので、結果としてほとんどブロキャスばかりがネタをやっている状態。
しかしながら、全体の印象として、チーモンがブロキャスを困らせ、操っている感じなのです。二人が出てくるたびに、なんともいたずらっこな笑顔を振りまき、きらきらしているので、本当に楽しかった。一応最初にショートネタをたくさんやって、中盤は4分くらいのをやって、最後をショートでしめるとう構成で合計14本用意していたとか。白井氏によれば、「ライブ中にもどんどん思いついちゃって!」という状態だったらしいですよ。
つまりチーモンは「差し漫才」というライブの構造自体にのりつつも、ぶっこわす、ブロードキャストを困らす!というライブに変化させてしまっていて、それがとても面白かった。つまりはルールにのりつつも、そのライブを壊してしまうというようなことをやっていたわけです。だから、ライブ自体を俯瞰する視線でみれば、メタレベルでとても面白かったのです。
チーモンはネタのレベルで、色々な前提を覆すことはよくありますが、ライブ全体のレベルでそれをやってのけるとは思わなかったので、とても新鮮でしたねー。
これは質の高いネタをやるブロードキャスト相手に対する信頼が絶大だからできたこと。彼らがちゃんとした漫才をやるからこそ、ライブの枠組みを破壊しても、おもしろかったし、チーモンとの対比が際立った訳です。そして、チーモンが本当にブロキャスをすきでライブを楽しんでいるのも伝わってきました。
もちろんネタをたっぷり見たかった人には不満が残ってしまったようですが、それはそれとして、なかなか楽しくて新しいライブだったと思います。ある意味事件でしたしね!

ところで、ちょっぴり気になった事。
上記のようなライブだったために、途中からチーモンファンとしては妙なスイッチが入ってしまいましてね、困るブロキャスがほんとにおかしくなってしまったのです。ネタ面白いなーというのがもちろん前提にあるんですけど、真面目に刑事のネタで背を向けて銃をかまえる房野さんが本当におかしくて、吹き出してしまいました。ところが、吉村さんが、どうも笑いどころじゃないとこで客が吹き出すのに対して、いらついてしまって半ば半切れになってしまってました。「変な顔してないよ!なんで笑うんだ!」と。どうも笑わせたいところじゃないところで笑いがおきるというのは、違和感があるみたいですね。
明らかに一部の客はネタ自体でなく、ライブ自体がおかしな方向に向かうのを笑うスイッチが入っていたので、細かいところが滑稽にみえていたのだと思います。そして、そういうメタな視点、一歩引いた視点で笑うという行為自体に対して、許容できる人と出来ない人がいるのかなと感じました。
ただ、メタに笑い方をするにしても、その対象自体に対する愛が深いことが前提ですし、全ての作品は見る側にも自由に楽しむ権利があります。意図通りじゃない解釈があっても仕方ないのです。その辺は分かっていて欲しいなあと思いました。そして、どこか笑うと言う行為が、演者の意図以外に発動した場合、バカにするようなニュアンスを感じ取られることが多いですが、必ずしもそうじゃないはずです。お笑いはそういった負の感情を含みつつも許容させる不思議な力があるはずです。どうか、それを全ての人が共有しますように。お笑いというジャンル自体に対する、どこか下位文化だという意識(コンプレックス?)がそういったものを生んでいるようで気になっているのでした。
そして、私は怒る姿をみて涙を流して笑いました。大変申し訳ありませんでした。でも好きなんです。許して頂きたい!