ミイラ取りがミイラに

チーモンチョーチュウのネタはなんでかグロイのにポップ。
見た目がかわいいからポップな感じがするっていうのはもちろんですが、理由は多分それだけじゃないはず。


思うに、二人のネタがポップでいられてるのはネタ中に菊地氏がにこにこしてるからだと思います。どんなグロイネタでも菊地氏がにこにこしてるので、なんとなく見てる側もつられてにこにこしちゃう。(誘い笑いって言われる技術なのかな。)でポップな感じがしちゃう。たぶん見てる側は菊地氏と視線を共有しているはず(この時点では。)


そして、野球のサイレンネタで面白いのは、菊地氏がミイラ取りがミイラになっちゃうっていうか、最後一緒に奇声を発しだすところ。おそらく漫才を見てるとき、見てる側としてはすっとんきょうなことをするボケの人に困って突っ込むツッコミの人に共感していて、どちらかといえばツッコミと自分を同一化して見ていると思う。なのにこのネタだと、どんどんずれていくボケにつっこんで軌道修正するはずのツッコミがいつのまにかボケにひきづりこまれちゃう。

ボケとツッコミの境界がいつのまにか崩壊しちゃって混沌としたなか、突然ネタの幕が下りてしまう。見てる側としては、あれあれ私はボケの世界(異世界)とは一線を画したツッコミのいるこっちがわ(現実の世界)にいたはずなのに、いつのまにか引きずり込まれちゃった。あーどうしよっていうとこでネタが終わる。そんなんされたらなんとなーく引きずっちゃう。


(ちなみにM-1ノンスタイルのボケである石田氏はまずぼけて自分でそれにつっこんだり、それをさらに突っ込みの井上氏につっこまれるっていうような、ボケがボケであり突っ込みでもあり、そのツッコミがさらに二重にボケになるっていうような高度なことをやってましたね。ボケとツッコミっていう役割分担の脱構築ってのはもはや必須科目なのかもしれないです。)


この間のよしもとオンラインを見ていて気づいたのですが、白井氏がなんかへんなことをいうと、菊地氏が軌道修正したりすることもあるのだけれど、実はいつのまにか菊地氏もへんな話しに全力でのっかってることが多いんですよね。自分の視線を代替してくれていたはずの菊地氏が軽々と自分をおいてけぼりにする。あるいは一緒に異世界にひきづりこむ。この感じがたまらない。多分一度でも引きずり込まれた人はファンになり、おいてけぼりになった人は二人にはまらないんだろうな。


結論として、チーモンの面白さっていうのはいつのまにか、ネタというちょっとホラーな異世界にずるずるとひきずりこむっていうこの手法のせいかもしれないと思ったのでした。

そして私はひきづりこまれて逃げ出せないー。