チーモンチョーチュウのシチサンライブ感  (無限大トライブについて)☆

チーモンチョーチュウ主演の『ほらね。〜彼女が使う魔法のコトバ〜』のライブレポなんかを色々な方のブログでながめつつ羨望を感じております。現在ライブに行けない環境にあるのです。いいなあいいなあ。ライブ行きたいなあ。

さてさて予告してたチーモンチョーチュウシチサンライブについて書こうかな。彼らがMCの回もブロードキャストMCの回に参加していたのもどっちもとっても面白かったです。

念のために、簡単にシチサンライブを説明すると、これまで渋谷ヨシモト∞ホールで行われていた1部2部と呼ばれた、テレビなどで人気のMCがやっていた無料フリートークライブに代わり、同劇場で毎日ウィークデイに行われているAge Age Liveというネタバトルのヒエラルキーの頂点にいるA Age芸人と呼ばれるまだ比較的無名の芸人たちが同劇場に出演する芸人たちの中からゲストを何組か呼んでMCと企画を担当するお笑いライブのことです。

チーモンシチサンライブ 
http://jp.youtube.com/watch?v=F-hqQx62PL8
ブロードキャストのシチサンライブ 
http://jp.youtube.com/watch?v=xIJP0FJpXA4
エントリが恐ろしい長さになってしまいました。後半はチーモンについてというより渋谷の無限大劇場の芸人コミュニティについて考えてみてます。)


シチサンライブについて語ろうと考えた時に、どうしてもチーモンチョーチュウだけについて語るのとは違う温度で語らないといけないのかなと思ったんです。とても面白かったのだけれど、彼らの漫才や、彼らだけのフリートークを語る際に用いた言葉では語れない複合的な要素がシチサンライブを輝かせているとおもったので。もちろん、チーモンの二人のおもしろ発言とか、いろいろあるんですが、でもそれはやっぱり他の芸人との絡みとの相乗効果でおもしろいんですもんね。無限大という場所で生まれた、あるいは生まれつつある芸人たちの集団としての面白さが大きいわけですね。

ちなみに1/12のチーモンシチサンライブは(他の芸人さんも大体そうですが)1部フリートーク、ブリッジ、2部ゲストの芸人をまじえてのコーナー企画という風に構成されています。


まずは軽く1部のフリートーク部分について。


成人式の日に収録したとあって、まさかのほんのすこし大人な二人が見れました。年金とかについてちょこちょこ話したりしてました、大人って大変っていうお話。ふふ。ま、いろいろ社会の仕組みはあんまりわかってなさそうでしたがね。
あと学者ってただのおたくじゃーんとか白井氏が言ってました。あああ。胸がちくり。
今回のトークでは菊地氏が電車でみた激しい寝相の人の話しとか面白かったです。菊地氏は状況の説明とかうまくて話術がほんとにたくみだなあ。あとは赤ちゃんに寿司っぽい服を着せたら可愛いから商品化したら売れるとか白井氏が言っておりました。でも白井氏、服ではないけど、もう寿司あざらしとかいう類似キャラがいますよ。流行ってましたから目のつけどころはいいですよねー。(流行ったのは2000年辺りとか。積年の感あり。)

http://www.sonymagazines.jp/chara/book1.html

あと雨雲を大きな掃除機で吸い取ったらいいのにとか。さすが白井氏らしい発想。マッチョが掃除機をもって、どうせならお祭りにしちゃえばいいと。相変わらずメルヘンシュールで絵本な世界観。そこはかとなく気持ちわるいのもいい。大人向けの絵本出したらいいのになあ。白井氏の絵の腕は残念な感じなので無理かなあ。

個人的には舞台でのフリートークは面白いけどちょっとだけ緊張が見て取れたような。よしもとオンラインのネットを見ながら本当にその場の思いつきで話してる風な方が面白いように感じました。

ブリッジは白井氏が高音の限界に挑戦。チーモンといえば白井氏の高音なので、これはいい企画。華原朋美のI'm proudに挑戦してました。まだまだ「余裕だぜ」ですって。


さてさてここからは2部について。
複数の芸人が集まった時に起きる化学反応の妙について。


まずはその前に簡単なレポ。
おなじみ白井氏と遊ぶコーナーでした。ペンを使って色々してました。みんな無邪気。大人がこういうしょうもないことに一生懸命になるのってほほえましいですね。芸人だけに許されている感じ?しかし、白井氏の考えたゲームで遊ぶとなんかみんな仲良くなるっぽいですよね。テレビゲーム以前の素朴なコミュニケーションツールとしてのゲームって感じでいいなあ。Tシャツに丸い的を書いて、そこをねらってペンでつつきあうゲームとか。キャップを持つ人と、むきだしのペンを持つ人が向き合ってうまくはめられるかを競うゲームとか。非常にきゃっきゃともりあがってました。

おまけ的に1/14のブロードキャストMCのシチサンライブに出演した際のレポも。MCという責任がなく自由なせいか、はたまた舞台で共演しているブロキャスとの仲がいいせいか、参加してた芸人さんたちの絡みがほほえましく楽しかったです。とくによかったのは、かな50音すべての頭文字から始まるネタを色々やるというもの。難しいと思われていたミニコントの攻略法がすばらしかった。白氏が呼びかけてそれに全員が答える形で物まねみたいなことをするんですが、すばらしい連携プレーでした。
あと白井氏の素敵発言もまとめておきます。「け」から始まる切ない話:毛虫が友達。「こ」から始まる絶対に流行らないラーメン屋、その理由とは:子犬が椅子。「ぬ」から始まる、あるある:沼怖い。
相変わらず素敵な世界観だ。ためいき。


さて本題。


吉本芸人の強みのひとつは、同事務所芸人たちがたのしそうにお互いのプライベートを暴露したりするとこにあるとはずっと思ってました。彼ら自身も誰か先輩芸人を中心に、○○軍団とか、△△ファミリーとかってよくいってます。普通大人になるとあんなふうに、和気あいあいとする機会は減るので、なんだかうらやましく思うわけです。で、そういうのがもすごくはっきりシチサンライブを通して見えるなあと感じたんです。

この集団性について鋭い指摘をしていたブログがありましたので参考にさせてもらいました。
(七里の鼻の小皺 http://d.hatena.ne.jp/nanari/20070101)
七里氏はダウンタウンにさかのぼって、この集団性の魅力を説明されています。<「二丁目軍団」において何より特異だったのは、彼らが普段からつるんでいる仲間であり、彼らにとっては、劇場での生活と日常生活の境目が、極端に小さかったということだ。二丁目劇場に集った若者たちは、劇場と自らの生の次元を大きく区別せずに、自らの好きな格好で舞台に上がる。この芸と生との距離感は、そのまま、舞台と客席との距離を近づける力となる。>

弟子入り制度を経ず、NSCという学校に通って芸人になったために、彼らは芸人という縦社会から自由であった。けれど、それは同時に芸人社会から浮き上がっているということでもあり、彼らは彼ら自身を守り強化するために、独自の集団を築く必要があったのでしょう。
プライベート時からの親密さに裏付けされた周辺にいる芸人たちとの生き生きとした絡み、そのことによる生のはつらつとした発露。そして形成されたトライブたちは独特の面白さを生み出すわけですね。これはまさに無限大にもあてはまります。今無限大が提供する面白さはまさに無限大周辺に生み出されたトライブたちの親密さから生み出されている点も大きいようにおもうわけです。

七里氏はこのエントリの時点ではとくにそのダウンタウンとトライブ生成の関係を西特有のものとしていますが、今現在は、東京吉本という、大阪吉本よりさらに伝統から自由な枠組みがありますし、無限大という劇場という環境もあるので、このトライブ形成という構造は東京にも持ち込まれて久しいと言えます。(無限大トライブはテレビなどには露出していないので見えづらかったのかもしれませんね。)無限大劇場ではまさにダウンタウンが生み出し、その継承者たちが東京進出する際に持ち込んだトライブ形成という集団制の面白さというものがより純度をあげて行われているように思います。

(ひとりごちるならば、なんで今までこのトライブについて看過されてしまったんだろうと歯がゆくおもうくらい。若い人たちがトライブを形成するのはよくあることですもんね。伝統的な訓練から外れたアーティストたちは、仲間通しでグループを形成し、そこから新しい何かが生まれます。アートではスクールとか言われるやつですね。印象派とかニューヨークスクールとか。他にもいろいろ。このトライブには印象的な素敵な名前が名付けられなかったから見えづらいのかしら。AgeAge 芸人とか言われるけど浸透しなそう。あんましかっこよくないから。)


鑑賞者は個別のコンビをみるだけではなく、その周辺のトライブをも見ている。つまり見る側は、ネタだけを見るのではなく、ネタをする演者の背後にある「関係性」をも見ているのです。そしてそれは、若手芸人の多くがやっているブログなどによってさらに強化されています。トークなどで漏れ聞く以外、本来知ることができないはずであったプライベートな交流関係をしることができる現在、芸人たちの関係性への興味は、より一層色濃くなっているはずです。


月末に行われるA AgeとB Age芸人の入れ替えマッチであるAge Sageで1位になったコンビがご褒美として獲得できるA Age ライブ〜Premium 〜(勝者がMCでそれ以外のA Age 芸人をしきっていろんな企画をします。)が発売と同時に完売するという事態も、毎日行われているネタみせのAge Age Liveでは見ることができない彼らのトライブとしての仲のよさ、ともに遊んでいるからこそ、こぼれる日常の裏話などを、ネタと同じくらい、あるいはそれ以上に客が期待しているからに他ならないでしょう。

(このトライブ形成力に優れたコンビであるライセンスは、彼ら自身の魅力に加え、ライセンスファミリーとされる仲の良い後輩芸人との絡みを含めて、地上波露出の度合いから考えれば信じられないくらいのライブ集客力を誇っている様です。)

七里氏は同じエントリで、漫才正史とダウンタウンが始めたフリートークについても色々まとめておられます。私にとっては初めて知ることがおおく勉強になりました。特に印象深かったのは漫才とは「演じていないかのようにして、その場で思いついたかのようにしてしゃべる」ことで、漫才を越える面白さをフリートークで提示し、ダウンタウンは漫才をある意味で一度終わらせたという点です。私が思うにそれはつまりダウンタウンは漫才の枠組みを脱構築し、フリートークやトライブの吸引力という新しい可能性を開いたということですよね。そしてそれは今まさに無限大で引き継がれ新しいジェネレ−ションへと引き継がれていっている。


私は関東の出身で漫才に慣れ親しんで育ったわけではありません。漫才が「演じていないかのようにして」しゃべるものだということすら知りませんでした。私にとって漫才とは、センターマイクの前で演者が面白いこと話すことでしかなかったですし、センターマイクがある時点で、それが演じていることだというのはあまりにも分かりきっていたので、自然さなど求めたことすらありませんでした。むしろその演技が面白かったり練られていたりすればするほどおかしく思いました。今の若手の漫才師の漫才は自然な会話などではなく、こだわりの演技でそのコンビ特異な世界観の中で演じきる様なものが多いように思います。それは漫才であろうとコントであろうとも。漫才とコントの境界もあいまいになってきてるようですし。

漫才は一つの型として楽しむ。完全に構成され演じられたものとして。そして、その漫才師に対する関心は自然と彼らのプライベートにも向けられ、フリートークや仲間たちとのじゃれ合いから見ることができる関係性を知ることで満足させられる。そういった鑑賞の仕方になっているのだと思います。


漫才は漫才として楽しむあり方と、お笑いコンビたちと周辺のトライブの関係性、彼らのコミュニティそのものを楽しむというあり方が多層構造になっていて、こういった二つの見方のレイヤーを鑑賞者や演者が自由にシチュエーションに応じて切り離したり重ねたりしながら面白さを生み出している。これが現在のお笑いのあり方や見方の一つなのだと思います。

(そしてそのような関係性への興味が一部腐女子的な見方へと発展したりするのだと思います。腐女子論はまたいずれ。前もこんなこと言いましたが、なかなか満足いくエントリーが書けないのです。)

集団性がおもしろさの非常に重要な要素であるならば、必ず若手芸人を大勢ゲストに呼んでやるライブであるシチサンライブは、どんどんトライブを強化する方向へと進むはずなので、新しいジェネレーションの芸人コミュニティ形成を促すとても興味深い試みになるはずです。もうすでにお兄ちゃんなチーモンチョーチュウはここが踏ん張りどころでしょうか。是非がんばってほしいものです。

他にも色々寝かせてる書きかけのネタはあるんですよね。がんばりまーす。